壺中天日乗

メモ帳

養老孟司『唯脳論』(ちくま学芸文庫)(仮)

養老孟司『唯脳論』読了。色々目からうろこの落ちる本だった。時間があればまたブログに書きたい。とりあえず面白かったところをツイートしてみる。

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と思ったが書いているうちに長くなったのでやっぱりこちらに書くことにします。この本に関してはまたあらためて書くかもです。

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人間の思考の型には視覚型と運動型がある。無時間型と有時間型ともいえる。
なぜ分裂したか?それは言語の起源に起因している。言語は聴覚と視覚で感知した情報を脳内で統合する過程で発生したからである。その時に生じた二重性が陰に陽に人間の思考に影響を与えている。ゼノンのパラドックスはその二重性を突いたものである。「飛んでいる矢は止まっている」――視覚型認識では確かに止まっている。しかし運動型認識では明らかに動いている。さてどっちだ?ということである。話をもとに戻す。そしてこの認識型が学問に深く浸透しているという話である。例えば医学だと学問的に解剖学・生理学に分裂している。これは学問の都合ではなく、人間の認識型の都合ということ。哲学だと構造主義実存主義構造主義実存主義は一見対立しているように見えるけど、実は認識型が違うだけであって、たとえば構造主義者が実際に行動する段になった場合、実存主義者にならざるを得ない。実存主義ナチズムに利用されたという歴史があるけど、そうなってしまった理由は、権力システム(人生に意味はあるのか云々悩んでる迷える子羊達を調教してうまく自分たちの戦争に利用したベルトコンベアーシステム)に対して免疫がなかったせいである。言い換えると実存主義は運動型哲学であり、行動に関する知見は与えてくれたが、視覚型すなわち客観的批判的知見には乏しかったということ。その反省から構造主義が生まれたともいえるのだが、それはともかく、構造主義によってシステムに対する分析が出来た現在、今やらねばならないことは行動――つまり実存主義ではないだろうか。
実はそれはもう皆わかっていて、ポスト構造主義はそういう目的でもってなされているといえるのではないだろうか。

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ちなみにマルクスは『資本論』を書いていたときは構造主義者で、『共産党宣言』を書いていたときは実存主義者だったと思う。いまだにマルクスが人気があるのは、そういう懐の深い思想家だったからではないだろうか。マルクスの生きた時代に構造主義はなかったわけだけど、むしろマルクスの思想が構造主義のひとつの源流になってる。

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アナキズムでいうと、大杉栄実存主義者で、堺利彦一派は構造主義者といえるかもしれない。結局大杉栄は憲兵に虐殺されるわけだけど、それは行動を優先したからに他ならない。いつの時代も行動を優先する人間は数少ない。僕だって結局今blog書いてるだけだし。大杉栄が今人気があるのは、行動することにみんなが憧憬を持っているからだろう。
確かにもうゴタクは飽きたって感じもある。

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

『罪と罰』に関する疑問点

罪と罰』を読んでずっと引っかかってることがあるんだけど、なんでソーニャがラスコーリニコフをあんなに好きなのかわからない。ラスコーリニコフって中二病入ってるし言動イミフだし殺人犯だし刑期八年だし魅力無い。ソーニャみたいな聖女はいないと思う。当時のロシアにもいなかったと思うよ。
ここで思い出すのが吉行淳之介の同一平面理論。この理論は僕の解釈では「生理的に共振するものがあると、相手に惹かれてしまう」というもの。
たしかにソーニャとラスコーリニコフの間にはそういう同一平面感が共有されていたような気はするけど、それだけで刑期八年待つかといわれると納得出来ない。
ちょっと話し変わるけど、そもそもお互いに苦しめ合ってるうちになんかお互い好きになるっていうのがよくわからない。それって愛とはなんの関係もないような気がするけど。同一平面感は共有されるかもだけどよー。磁石みたいに反発して反発して反発した挙句くるっと一回転してがっつり組み合うみたいな。面妖や。
愛ってどっちかといえばお互いに与え合うもんだろ。ラスコーリニコフって変じゃん。ソーニャに愛の言葉なかったし・・・不自然。
とか思ったけど「人それぞれ」と言われればたしかにそうだ。

古書と私の未来の思い出

電子書籍はこれから隆盛すると思う。それに伴い、紙の本は減少し、古書はますますマイナーなモノになっていくと思う。そう考えたときに、私は古書を買うなかで経験した様々な出来事――たとえば買った本に署名がしてあったり、サイン本だったり、自作の変な栞が挟まっていたり、持ち主の葉書が挟んであったり、線が引いてあったり、落書きがしてあったり、人物相関図が書き込まれていたり、謎のメモがあったり、レシートや領収書が挟んであったり、前の古書店の値札が張ってあったり――を結局は愛していたのであり、いつか未来の世界で、これらの思い出を宝物のようにかかえて生きていくことになるのだろう、と考えるにいたったのだった。

能町みね子『くすぶれ!モテない系』(文春文庫)

うちら「モテない系」だよね~なんでこんなんなっちゃったんだろうね~でもまあべつにいいんじゃね?まあこれからもこんなかんじいこうぜ~じゃあばいばい、というかんじの女子会エッセイです。

おもしろいな~とおもったのは「モテない系というのは文化系女子という呼称が偉そうで気にいらないから作った(意訳)」というところです。(p268)
男性ならオタク系といわれてもまあそうかもなあ実際おれらオタクだし、という感じで受け入れるとおもうんですが、あえて「モテない系」と名乗っているところに自意識の高さがうかがえます。オタク系ほどダサくなく、文化系女子ほど偉そうじゃない、ということでしょうか。男性は外部からつけられた呼称に安住し、女性はみずから名乗る。このへんの男女間の違いがおもしろいとおもいました。

てかBLってむかしは「やおい」という名前でオタクの典型だったのにいつのまにかBLになって文化系女子のカテゴリーになってるし。なんでBLが出世したかというと、僕のみたところ、ユリイカ文化系女子カタログ、BLスタディーズ)でとりあげられたからだとおもいます。ユリイカは文化系の牙城だ!ユリイカすげえ。

でも「モテない系」って実は曖昧でひろいんだとおもいました。「モテない系」というのは、要は「『モテ系』および『圏外』以外の人々」という定義となっています。一般地味層、負け犬も内包する概念のようです。(p248)

ただエッセイで書かれるモテない系は、どうやらもっと特定の人々ではないだろうかと。サブカル系、文化系女子とかなりかぶっている、というか一緒かもしれない。ただ違うのは自意識の違いでしょうか。サブカル系、文化系女子よりも若干謙遜している感じですね。でも謙遜できる私たちはステキとじつはおもっている。

「モテない系」がモテないのは「モテたい」という意識の純度がひくいからだとおもいます。というのは、「モテない系」のいう「モテたい」には、自己顕示欲と承認欲求が他の層と比較して高い割合でブレンドされているからです。

だから「モテたい」といっても、わざわざ自分の趣味嗜好を曲げてまでモテたいとはおもわない。しかし一方では、かなりあからさまにモテたいとおもっている。「モテない系」のいう、「モテたい」は、どちらかというと、「受け入れてほしい」のほうが近いとおもいます。だから、私のありのままを受け入れてくれる人が現れないかしら、となる。(p279)

基本的には自虐エッセイだけど自虐とみせかけて自賛、というなかなかいい湯加減のエッセイとなっております。

あと「モテない系」男子はじつはモテる人々なのでおまえらよかったな!といわれております。くるりとラーメンズ松本大洋を知っていればいいとのことです。岡田あーみんを知っていればもうおまえいうことねえよ!だそうです。岡田あーみんは読んだことがありませんが、ヴィレッジヴァンガードにいつも置いてあるので、それ系のアイテムなんだなあ~となんとなくおもっていたのですが、納得しました。

全体的にモテ系にたいする嫉妬が漂っているかんじですが、そこはまあ、くすぶっているということで。

くすぶれ!モテない系 (文春文庫)

くすぶれ!モテない系 (文春文庫)

「お前が言うな」について

「お前が言うな」的状況は、よく考えれば、発言内容が妥当であれば、相手が誰であろうと、冷静に自己検討すればいいだけの話であり、またその方が自分のためになるのだが、実際にはなかなかそう出来ないわけで、その理由は、解剖学的に見て、脳は「感情の部分」と「論理的に考える部分」が別々に存在しており、感情の部分のほうが先に反応してしまうからである。
人間というのはなかなか難儀な生き物である・・・


参考

養老孟司 さっきも言ったように、良し悪しの判断は、脳の中でも言語とは違う部分に入ってしまうんです。我々の脳は、簡単に言ってしまえば、大きく表面に出ている新皮質と、その周りにある辺縁系という古い部分からできていて。視覚、聴覚、触覚というのは、すべて新皮質に入るわけです。そこで言語という機能が生まれる。一方、味覚や聴覚の約半分、また善悪の判断とか感情というのは辺縁系の機能なんです。


――ちょっ、ちょっと待ってください。つまり、善悪の判断は言語的でない、ということですか?言語にならないということは、論理的でないということになってしまうと思いますが・・・・・・。


養老孟司 そうですよ。論理的でない。だから、あなたが悪いと思っていることを僕がすれば、あなたは怒るでしょう。必ず感情が伴う。怒る理由をいろいろ言うけども、それはあとからくっつけた理屈でね。はっと気がついたら怒ってるわけです。こういうのは辺縁系の機能です。動物でいえば、獲物を見て「食えるか食えないか」を判断しているのと同じ部分ですよ。社会的な善悪といったって、その程度のものです。*1

*1:ビートたけし「ザ・知的漫才 結局わかりませんでした (集英社文庫) 」p68-69

拷問者の精神生活

ハロルド・ピンター「何も起こりはしなかった ―劇の言葉、政治の言葉」 (集英社新書)に載っていた、以下の文章について考えてみる。

拷問者が音楽好きで自分の子供たちには非常にやさしい人間だという事実は、二十世紀の歴史を通じて明白に証明されてきました。このことは、私たちの社会生活と政治生活を支えている心理のあり方についての、最も複雑な問題のひとつです。私自身は、この問題について答を出すことはできません。ただ問題を提示するだけです。(p157)

■二重人格的な生活が何故行えるかという点について。
① 仕事とプライベートを峻別するのは美徳という考えが一般常識だからだと思う。世界中でこの美徳が当てはまるのかはよくわからないが、おそらくすべての先進国は当てはまるのではないだろうか。
② 組織に属している人間が、拷問担当者の辞令を受けて拒否することは難しいと思う。よほど高潔な人間ならまだしも、お金がないと生きていけない人がいる限り、辞令を受け、拷問を担当する人は存在し続けるだろう。仮にお金がなくても生きていける世の中になっても、全人類が道徳的にならない限り、拷問者は存在するだろう。そして、国家が自分たちに都合の悪い人間を熱心に育成するとは思えない。さしあたっては、拷問を行うような機関を作らないことが現実的だろう。システムを作ると、ほとんどの人間は殺人をしたり拷問をしてしまうことは、歴史的に見て明らかだと思うからである。

■「拷問者は音楽好き」について。
「すべて芸術は絶えず音楽の状態に憧れる。(ウォルター・ペイター)」という言葉がある。音楽は問答無用で聴く人を癒すところがある。
拷問者は拷問で荒廃した心を無意識のうちに癒したいと思い、音楽を聴くのではないだろうか。

■「拷問者は自分の子供たちには非常にやさしい人間だという事実」について。
子供を愛すことで、「自分には人を愛する能力がある」ということを確認したいのだと思う。
そういう意味で、子供を愛すことで、結局は自分を愛しているのだと思う。

何も起こりはしなかった ―劇の言葉、政治の言葉 (集英社新書)

何も起こりはしなかった ―劇の言葉、政治の言葉 (集英社新書)

政治の言葉づかい あるいはネット上での議論について

ハロルド・ピンター「何も起こりはしなかった ―劇の言葉、政治の言葉」を読んで以来、政治の言葉について考えている。
そして、以前読んだ本の以下の箇所を思い出した。

養老孟司 さっきも言ったように、良し悪しの判断は、脳の中でも言語とは違う部分に入ってしまうんです。我々の脳は、簡単に言ってしまえば、大きく表面に出ている新皮質と、その周りにある辺縁系という古い部分からできていて。視覚、聴覚、触覚というのは、すべて新皮質に入るわけです。そこで言語という機能が生まれる。一方、味覚や聴覚の約半分、また善悪の判断とか感情というのは辺縁系の機能なんです。


――ちょっ、ちょっと待ってください。つまり、善悪の判断は言語的でない、ということですか?言語にならないということは、論理的でないということになってしまうと思いますが・・・・・・。


養老孟司 そうですよ。論理的でない。だから、あなたが悪いと思っていることを僕がすれば、あなたは怒るでしょう。必ず感情が伴う。怒る理由をいろいろ言うけども、それはあとからくっつけた理屈でね。はっと気がついたら怒ってるわけです。こういうのは辺縁系の機能です。動物でいえば、獲物を見て「食えるか食えないか」を判断しているのと同じ部分ですよ。社会的な善悪といったって、その程度のものです。*1

世界史の教科書を読むと、ほんとうに人間は感情で動いている気がする。しかし人間は長い歴史を経て、感情より理性を優先させるように努力してきたということもまた、間違いのないことだと思う。「人間の歴史は感情から理性への歴史である」といえる。

しかし最終的には、先の養老さんの話のように、人間は感情で動く。であるから、もし、ある人が政治的影響力を行使したければ、感情に訴えることがどうしても必要になる。そう考えると、政治の言葉はマキャベリスティックにならざるを得ない。アジテーターにならざるを得ない。
芸術家が政治にあまり興味を示さないことが多いのは、この政治性が受けつけないからだと思う。
「人間は所詮感情の生き物なんだ」という諦観が強い人ほど、立派なアジテーターになるのだと思う。そして、実際に人気が出る。

人間は感情で動くが、現代の人間は感情より理性を優先させる人もいる。
しかし程度の差がある。
「感情より理性を優先させる人」は俗に「話がわかる人」といわれるのだと思う。
そして、「理性より感情を優先させる人」は、「話がわからない人」だといわれる。
しかし、どっちがより多いかといわれれば、「理性より感情を優先させる人」にならざるを得ない。(医学的に見て、最終的には、人間は感情で動くわけなので。)

ルールがないと、喧嘩になってしまうから、今のような政治システムが出来上がったのだと思う。(その今でさえ、たまに騒ぎが起こるが・・・)
そう考えると、ルールもなにも無いネット上で議論をするのは、あまり生産的にはならないのではないだろうか。
傍から見ていても、ほとんどが喧嘩別れに終わっているような気がしてならない。


何も起こりはしなかった ―劇の言葉、政治の言葉 (集英社新書)

何も起こりはしなかった ―劇の言葉、政治の言葉 (集英社新書)

*1:ビートたけし「ザ・知的漫才 結局わかりませんでした (集英社文庫) 」p68-69