壺中天日乗

メモ帳

大西巨人『神聖喜劇』(光文社文庫)

ついに読了した。何度も挑戦しそのたびに挫折したのだが、今回は読むことが出来た。おそらく読書的経験値が上がっていたことと、漫画版を読んでいたことが原因だと思う。漫画版を読んでいなかったら、読了できなかったと思う。この場を借りて、漫画版を作った人々に感謝の意を表したい。ありがとうございました。

この本を読んでまず思ったのは、作者はドストエフスキーが好きなんじゃないかということ。作中で言及されているのもあるけど、『罪と罰』にストーリー展開が似ていると思った。私はドストエフスキーは『罪と罰』しか読んでいないので、ひょっとしたら他作にもっと似ているものがあるのかもしれないが、とりあえず『罪と罰』との共通点を挙げてみる。

① 世界に絶望し、死のうと思っていた主人公が
② いろいろなことを体験し、「世の中も捨てたもんじゃないないな」と思い始め、生きようと決意し
③ 私の人生はこれからだ、と新たな物語の始まりを予感させて終わる

思うにこのストーリー展開は鉄板であり、この展開に感動しない読者はいないだろう。私も感動した。
作品としては、②の「世の中も捨てたもんじゃないないな」と思わせるところに説得力を持たせられるかどうかが大事になってくる。

私は『罪と罰』よりも『神聖喜劇』のほうが説得力があると思った。『罪と罰』は主人公が救われるのはソーニャとキリスト教によってだが、キリスト教はまあいいとして、ソーニャみたいな女神は存在しないと思う。こんな人はいない。仮にいたとしてもリアリティがない。その辺が、なんだかおとぎ話のように感じてしまう。
神聖喜劇』はその点、冬木・大前田・村上・村崎・生源寺・橋本等みんなリアリティがある。これは私が日本人だからではないと思う。外国人が見ても存在に説得力があると思う。それくらい人物造詣が巧みだ。

神聖喜劇』は傑作だと思うけど、日本文学の傑作というより、世界文学の傑作といいたくなる。その理由は、本作が日本文学の約束事を無視しているように見えるからだ。

神聖喜劇』の半端ない点
① 全体に流れる異様な文学的緊張感:読者は内面的および外面的に主人公の世界を追体験することになる。読者は官能的(としかいえないような)喜びを感じることだろう。ここまでの緊張感が生まれた理由は、作者が戦争(日本軍国主義)と文字通り命を懸けて向かい合ったからであろう。
② 異常な引用の多さ(英語、独逸語、漢文、詩、法律、江戸時代?の論文、短歌、俳句、民謡、政治的論文、新聞記事等)
③ 文学形式の多様性:所々戯曲になったりセリフだけになったりする。なかでもドキュメンタリーの文体になったのはびっくりした。ドキュメンタリーの文体というのは、「ト書き+ナレーション」というか、描写があり、ところどころに当事者のナレーションが入るという文体。私が知っている限りでは、藤枝静男とか中原昌也も使っていた。
④ 卓越した時空処理:作中で流れる時間は主に三ヶ月間だが、回想などしょっちゅう過去に戻るので、実質主人公の半生が描かれる。そしてそれが現在の主人公をより親近感のあるものにしている。こんな過去があったから、いまこういう人間になったのだな、という感慨を読者に抱かせることに成功している。

あと、めちゃシリアスなシーンの直後にめちゃ笑えるシーンを入れてくるのが感動した。まさにタイトルを裏付けるかのような演出。特に大前田軍曹と村上少尉が日本の戦争目的について論争する場面の直後、村上少尉に問われた鉢田・橋本が日本の戦争目的について答えるシーンは感動的に面白い。そしてその二人の珍答がまぎれもない正答であるという皮肉。まさに「神聖なる喜劇」といわざるを得ない。

大前田軍曹は敵役として出てくるのにただ悪い人間ではなく、公平さを備えているし、独特の魅力も持っている風に描かれているのもいい。主人公は反発しつつも、彼に対する畏敬の念も持たざるを得ない。ラスト付近における、二人の決別の場面は今まで読んだことがないような異様な感動を覚えた。この二人の関係は一体なんと形容すればいいのか。腐れ縁?少なくとも、軍隊がなければ、ふたりの間で、ここまで濃密なやりとりはありえなかっただろう。社会というものの不可思議さを痛烈に感じる。この不可思議さはそのまま東堂が考える、運命論的思考と地続きになっているような気がする。

感動といえば、最終巻にある「模擬死刑の午後」。漫画で読んだときもここはスゴイと思ったが、本編もかなりスゴイ。そしてここまで読んできた読者はこの場面に十分な「生きることに対する」説得力を感じることだろう。

本作はとっつきにくい作品なので、まずは漫画版から読むのがいいと思う。図書館においてあることがあるので、探しに行く価値はある。


追記

本書読後、私は丸谷才一著『文章読本』における「第八章 イメージと論理」を思い出した。
東堂的に引用しようと思ったが、長かったので、我流にまとめることにした。
それは以下のような内容である。
「文章において、イメージをうまく使うのは効果的である。イメージは読者に文章外の諸事象を喚起し、論理の手助けをしてくれる。しかしイメージは諸刃の剣であり、いったん誤用したら最後、どれだけ言葉を尽くしても相手にうまく伝わらず、結局最後まで読者に違和感を与えてしまう結果となる。なぜならイメージと論理は本来別々の位相に存在しているからである。ゆえにイメージを扱うには文学的センスを必要とする。」
本書『神聖喜劇』はイメージと論理どちらも過剰であり、ゆえに両者があちこちで過剰なほどの化学反応を起こしている。作者による小説世界の時空的な広さはそのまま化学反応領域の広さとなる。
そしてそのイメージと論理を尽くして書かれる(描かれる)世界は生きていくうえで無視できない――いや、無視できなくはないがそれでも――考えておきたい問題ばかりである。これら諸問題はそれぞれ主人公の脳内において闘争的に検討される。戦争と平和、個人と権力、感情と理性、差別と平等、階級とマルクス主義、そして生と死・・・などがそれぞれ異なる位相で激しく相克する。その観念の闘争(およびイメージと論理)によって生まれる迷宮的世界が本書の「なんだかすごい本を読んでしまった・・・」というような圧倒的読後感の正体ではないだろうか。大前田軍曹はそれら東堂に立ちはだかる壁の代表者に他ならない。そして、ある面では主人公は大前田軍曹に共感し、またある面では教えられもするのである。そこがまたイイ。

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇 (第1巻)

神聖喜劇 (第1巻)

坪内祐三『一九七二―「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』(文春文庫)

坪内祐三は自称保守だが、「本当に保守なのか?」という疑問が以前からあった。特に週刊スパで現在も連載している「文壇アウトローズの世相放談・これでいいのだ!」という福田和也との対談で「でも結局、皇室がなくなっても日本は変わんないと思うんだよ。うん。皇居に爆弾とか落ちて、そこがまさに『空虚な中心』になったとしても、今の日本は変わらないよ。このペラペラの国はね。」*1という発言を読んだ時は「オイオイめちゃくちゃアナーキーだな。どこが保守なんだ?」と思ったものだった。
しかしこの本を読んで一応自分の中でそれの答えが出た。それは後に触れる。

本書は『文化評論』と銘打たれている。文化評論てのは初めて見る言葉だ。本書の内容をかいつまんで言うと、「1972年の日本で起きた出来事を散文的に描き、当時の時代精神を出来るだけ立体的に浮かび上がらせようとしている」ということになるだろう。所々私小説みたいになったり、エッセイっぽくなったりしているが、これは出来るだけ多面的に1972年を描きたいという作者の狙いがそうさせているのだと思われる。時代精神を描くためには重層的および多面的な描写をし、読者をして重層構造に導く必要があるが、本書の散文的記述はその目的意識が反映された結果だと解釈している。

以前読んだ本で、坪内は自身を「文化史家だと思っているが、分かりにくい肩書きなので、めんどくさいときは評論家で通している」といっていた(どの本だったかは忘れた)。本書の筆者紹介では「文芸評論家」となっている。
本書は文化史家としての坪内の本領発揮といえよう。
1972年を選んだ理由は冒頭で語られている。副題にもあるように、要するにこの年は激動の一年であり、日本人の生活様式および精神様式が激変した年である。この一年を振り返ってみることで日本人が新たに獲得したもの、そして失ってしまったものを考えてみたい・・・という感じである。ということで「日本人」である。テーマは1972年であるが、それを鏡としてだれに向けられているかといえばそれは日本人であり、本書の本当のテーマは日本人といえる。

私は連合赤軍浅間山荘事件と雑誌『ぴあ』創刊についてが面白かった。
書いていくうちに熱が入ってしまったと坪内もいっているが、連合赤軍に関する文章が多い。たしかに面白い。かくいう私も最初はこの本にそんなに乗り気ではなかったのに連合赤軍のところではまってしまい、最後まで読んでしまったというクチなんである。

連合赤軍赤軍派京浜安保共闘が合体して生まれた組織であるが、もともと両者の組織文化には違いがあった。それにもかかわらず合体したのは、カネはあるが武器のない赤軍派とカネはないが武器はある京浜安保共闘がお互いに相互補完できると考えたからである。
友好関係を互いに志向しつつも両者は反発と負い目(特筆すべきなのは、「京浜安保共闘は規律のためにメンバーを総括しているが、俺達はまだそこまではしていない」という旧赤軍派の負い目)の間で揺れ動き、そしてついに旧赤軍派のメンバーで一番意識の低い(と周囲から目されている)遠山美枝子が総括される。

坪内は当事者のテクストを縦横に引用しながらその様を描いているのだが、ここはホントに面白い。組織がどうやって崩壊していくのかがつぶさにわかる。他人の行動を必要以上に重く解釈して皆の行動がエスカレートしていく様は戦慄した。組織におけるこの感じは自分にも経験があるからだ。これはまったく他人事ではない。

『ぴあ』について。坪内は嘆く。この雑誌により映画が情報化社会の波に乗り、それまであった「一過性がもつ手ざわり」が消失してしまった・・・しかしそれは序章に過ぎなかった。
日本はその後ファスト風土化しデオドラントされ無表情になり一過性がもつ手ざわりを加速度的に失ってしまった・・・そして今はスーパーフラット・・・ここは失われた郊外・・・といっているような気がする。(いってないけど)
たしかに地方在住者として「一過性がもつ手ざわり」の消失は切実に感じる。たまに近隣県(香川とか高知)に行ってもホント似てるんだよな。昔ながらの商店街はシャッター通りになってて、皆大型ショッピングモールに行っているという状況。しかもこの傾向は年々ひどくなっている。

ここまで書いてきて実はこう思わないでもない。「所詮東京で起きた出来事ばっかりじゃねーか」と。1972年以降の徳島に生まれ徳島で育った私からは全然遠い。『連合赤軍』?『ぴあ』?『プロレス』?そんなん知らんワ・・・という気持ちがある(ここまで書いてきて気付いたが、この本はTVがいかに国民意識の賦活に重要な役割をしてきたかが間接的に示されている。TVが無ければ、たとえば赤軍事件はここまで伝説にならなかっただろう)。東京だろうがアメリカだろうが同じくらい遠い・・・むしろアメリカより東京に親近感を感じるのがなにか、おかしいんじゃないかという気がする。私はなにか騙されているんじゃないのか?(かといってアメリカに親近感を感じるわけでもないけど)
とはいえ日本人である私はやはり東京を中心とするこの日本をこそ準拠集団にしないといけない(税金とか払ってるし)。そうせざるを得ないという気持ちも85%くらいある(でも東京テほとんど行ったことないんやケド)。
ここで「想像の共同体」という言葉が私の意識に上る。この本は失われた日本を出来るだけ具体的――いっそ文学的といったほうがいいが――に描くことで読者に1972年的日本を追体験させようとする。
国民とは「想像力により立ち上げられた共同体」という意味で、本書は1972年をひとつの核として、想像の共同体を再び立ち上げようとしている。(そして、自分達の失ったものを数えてみようともしない現代日本人に怒っている。)
確かに、これは保守の思想である。やはり筆者は保守であった。

正義はどこにも売ってない-世相放談70選!

正義はどこにも売ってない-世相放談70選!

*1:坪内祐三,福田和也『正義はどこにも売ってない』p93 扶桑社

打ち切り漫画について

我々が打ち切り漫画に惹かれるのは、それが人生に似ているからではないか。
我々は人生の終点を知らない。しかし複雑に入り組んだ人生の物語がまさに入り組んだままゆっくり消えていくという「あの感じ」はそこそこ生きていると人間誰しも経験しているものだし、そこから終点に対するある予感も我知らず胸に宿しているのではないだろうか。
打ち切り漫画を読む時、我々はまさに人生の終点に対する予感を目の前に見るのである。

最近のアイドル事情について考えた

昔はアイドルってそんなにいなかったけど、最近は猫も杓子もアイドルって感じで、とりあえずアイドルってつけとけって感じのコンテンツ化が著しい昨今ですが皆様いかがお過ごしでしょうか。私はたまにラジオとか店(主にドラッグストア)の有線でアイドルっぽい歌(みんな同じに聴こえる)を聴くと、「よくわからないけどこれがAKBの曲かな・・・」などとぼんやりと考えて0.5秒後にはきれいさっぱり忘れてしまうくらいには最近のアイドル事情に疎いです。
アイドル激増の理由を考えてみました。
原因は、情報インフラの整備と関係していると思います。昔はラジオ局もTV局もあまりなかったわけで、それにアクセスできる人は限られていた。
今はネットで何でも出来るから、今まで埋もれていたアイドル志望者があまた出てきているという構図ではないでしょうか。
まあ楽しくていいと思います。

もっと美味しそうに食べたら?

「もっと美味しそうに食べたら?」とよく言われる。
本当に美味しい場合にも言われる。
つまり伝わってないらしい。
それ以来、本当に美味しいのに、美味しそうに食べる演技を強いられている。これがホントにイヤ。せっかく美味しいのに「ああ演技しなきゃ」という意識のせいで文字通り味気なさを感じてしまう。
だから独り、もしくは気が置けない人と食べたい。

チャールズ・ブコウスキー、検閲について語る

チャールズ・ブコウスキーが彼の本を禁書にした図書館に出した手紙
http://d.hatena.ne.jp/yomoyomo/20111027/bukowski
Letters of Note: Charles Bukowski on Censorship(手紙の原文あり)
http://www.lettersofnote.com/2011/10/charles-bukowski-on-censorship.html

上の各記事を読んで、感銘を受けたので、翻訳をしてみました。

*  *  *  *  *

オランダの図書館が『ありきたりの狂気の物語』を禁書にしたという事実をHans van den Broek氏がブコウスキーに伝え、意見を求めました。手紙はそれに対する返信です。

*  *  *  *  *

Transcript
7-22-85

Dear Hans van den Broek:

Thank you for your letter telling me of the removal of one of my books from the Nijmegen library.
ナイメーヘン図書館にて私の本が検閲されているという貴方のお手紙、感謝いたします。

And that it is accused of discrimination against black people, homosexuals and women. And that it is sadism because of the sadism.
私の本には黒人、同性愛者、女性に対する差別容疑がかかっています。それは徒にサディズムを煽っていると目されています。

The thing that I fear discriminating against is humor and truth.
私が恐れるのは、ユーモアと真実が差別されることです。

If I write badly about blacks, homosexuals and women it is because of these who I met were that.
もし私が黒人、同性愛者、女性について悪く書いているとしたら、私がそれらを実際に見たという事なのです。

There are many "bads"--bad dogs, bad censorship; there are even "bad" white males.
色々な「悪いもの」があります――悪い犬、悪い検閲官もそうです。彼らのなかには「悪い」白人の男性しかいません。

Only when you write about "bad" white males they don't complain about it.
貴方が「悪い」白人の男性を書く時だけ、彼らは文句を言いません。

And need I say that there are "good" blacks, "good" homosexuals and "good" women?
では、私は「良い」黒人、「良い」同性愛者、「良い」女性を書かなければならないのでしょうか?

In my work, as a writer, I only photograph, in words, what I see.
作家としての私の仕事は、私の見たものを、ただ言葉に写し取る事です。

If I write of "sadism" it is because it exists, I didn't invent it, and if some terrible act occurs in my work it is because such things happen in our lives.
私が「サディズム」について書くのは、それが実際に存在しているからで、私がそれを作り出したのではありません。私の作品の中で悲惨な出来事が起こるのは、私たちの人生において、そういうことが実際に起こるからです。

I am not on the side of evil, if such a thing as evil abounds.
邪悪なものが多いとしても、私は邪悪なものに与する者ではありません。

In my writing I do not always agree with what occurs, nor do I linger in the mud for the sheer sake of it.
私は作中で起こる出来事に必ずしも同意しているわけではありませんし、邪悪な事に拘泥しているわけでもありません。

Also, it is curious that the people who rail against my work seem to overlook the sections of it which entail joy and love and hope, and there are such sections.
また、私の仕事を非難する人々が、私の作品中にある喜びや愛や希望を見過ごしている事実は、私の興味をそそります。

My days, my years, my life has seen up and downs, lights and darknesses.
日々、年々、人生には色々な事があります――良い事も悪い事もあります。

If I wrote only and continually of the "light" and never mentioned the other, then as an artist I would be a liar.
私が「良い」事しか書かず、他の事を無視し続けるとしたら、作家としての私は嘘つきという事になるでしょう。

Censorship is the tool of those who have the need to hide actualities from themselves and from others.
検閲とは、自分自身から、そして他者から、現実を覆い隠したい、と願う人々のための道具です。

Their fear is only their inability to face what is real, and I can't vent any anger against them.
彼らは恐怖心のせいで現実と向き合えないだけであって、私は彼らに対して怒りを感じることは少しもありません。

I only feel this appalling sadness.
ただ、深い悲しみを感じるだけです。

Somewhere, in their upbringing, they were shielded against the total facts of our existence.
人生のどこかで、彼らは、我々の存在の事実を直視する事を止めるよう教えられたのです。

They were only taught to look one way when many ways exist.
彼らは存在する多くの道のなかで、一つの道を見るよう教えられただけでした。

I am not dismayed that one of my books has been hunted down and dislodged from the shelves of a local library.
私の作品が特定の図書館の本棚から取り除かれたからといって、私は落胆しません。

In a sense, I am honored that I have written something that has awakened these from their non-ponderous depths.
ある意味では名誉な事です。私の書いたものが、彼らの底の浅さを露呈させたのですから。

But I am hurt, yes, when somebody else's book is censored, for that book, usually is a great book and there are few of those, and throughout the ages that type of book has often generated into a classic, and what was once thought shocking and immoral is now required reading at many of our universities.
しかし、自作以外の本が検閲される時、当然私は痛みを感じます。それらの本は通常名著で、希少で、長い年月を経た上で現在は古典となっています。これらは当初ショッキングで不道徳的だと思われた本ですが、現在では主に大学で読まれています。

I am not saying that my book is one of those, but I am saying that in our time, at this moment when any moment may be the last for many of us, it's damned galling and impossibly sad that we still have among us the small, bitter people, the witch-hunters and the declaimers against reality.
私の本がその種の本と同じであると言いたいのではありません。私が言いたいのは、今現在、今まさにこの世を去る人がいると思われる、このかけがえのない瞬間に、偏狭な人々、魔女狩り人、事実を非難する人々が存在するという事に対して、私は非常に腹立たしく、かつ悲しいと感じているという事なのです。

Yet, these too belong with us, they are part of the whole, and if I haven't written about them, I should, maybe have here, and that's enough.
けれども、彼らは私たちと関係があります。彼らは我々の一部なのです。私は彼らに関して書きません。私はここにいます。そしてそれで十分だと思っています。

may we all get better together,
すべてうまくいくことを願って。

yrs,

(Signed)
Charles Bukowski

怪談が語るトラウマ

最近寝つきが悪くてどうにも調子が狂う。おそらく熱帯夜だからだろう。連日変な夢が多いような気がしている。しかし憶えていないので、本当のところは分からない。ただ、朝起きると「ああ変な夢だったなあ」と思い、そのときは夢の内容も覚えているのだが、やがて「変だったなあ」という感覚だけ残って、あとは消えてしまうのである。
夢日記を私は書かない。昔それをやると頭がおかしくなるという話をどこかで聞いたからだ・・・というか、そもそも書き記す必要性を感じない。
悪夢がもたらす「怖かったという感覚だけ残ってそれ以外は消える」という感覚が気持ち悪いのは、トラウマと同じだからだろう。
トラウマも要するに「恐怖心だけ残ってあとは消える」というものだった。そして、その原因が分からないからいつまでも苦しいのだ。

『牛の首』という都市伝説の気持ち悪さもそこにある。

『牛の首』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E3%81%AE%E9%A6%96

『牛の首』が気持ち悪いのは、恐怖の構造がトラウマと同じだからだ。『牛の首』とはつまり、主体から抜け出た、引き受け手のいない、さながら幽霊のようにさまよう、「純粋なトラウマ」なのだ。