壺中天日乗

メモ帳

未成年の主張、あるいは大学教育について

こんなニュースがある。

桜宮高生徒、涙声で不満訴え「私たちの声聞いてくれなかった」

 「本当に残念。言葉が出ない」。大阪市立桜宮高の体育系学科の募集中止を受け、同校の運動部の元主将ら、3年生8人が21日に市役所で記者会見した。「私たちの声を十分に聞いてくれなかった」。涙声で橋下徹市長への不満を訴えた。

 制服姿の女子生徒6人と男子生徒2人は、1時間以上、立ったまま会見。「在校生や受験生のことを考えたら、もっと違う結果があったのではないか」と募集中止にやり切れない表情を見せた。

 同日午前、橋下市長は桜宮高を訪問し、在校生に約1時間、説明したが、生徒側は代表2人が計15分間発言しただけ。会見で生徒は「市長から具体的な理由やメリットの説明がなかった」「十分に聞いてくれなかった」と不満をあらわにした。

 市長が「勝利至上主義」と指摘したことには、女子生徒が「礼儀やマナーなど人として大切なことを学んできた。桜宮高の伝統は正しいと思っている」と力を込めた。

 管理職と体育科教員の刷新が決まったことに、女子生徒は「心に負った傷は深く、私たちを支えてくれるのは同じ傷を負った先生しかいない。新しい先生に入れ替えては、亡くなった子の思いを帳消しにしてしまうように感じる」と訴えた。

http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/01/21/kiji/K20130121005033100.html

このニュースを見てまず思ったことは、「痛々しいな・・・」ということであった。
彼らの痛々しさは、「観点が高校校舎から一歩も出ていない」という点にある。
それで記者会見をしてしまうところが健気だし、それだけ痛々しい。
もし裏で手を引いている大人がいるとしたら、許しがたい。

彼らのロジックは「桜宮高の伝統は正しいと思っている」という発言からも判るとおり、「伝統だから正しい」というロジックである。このロジックで相手を説得することは難しい。ましてや体罰など。
彼らには、校舎外からの視点が決定的に欠けている。

しかし、これは彼らの責任ではない。彼らは未成年なんだから仕方がない。
だからこそ、大人がちゃんとした指導をするべきなのだと思う。

ここからは大学教育の話になる。
大学という場所は、さっき言ったような意味での、「校舎外からの視点」を涵養する絶好の場所だと思う。
一般的にいって、高校を卒業をした時点で、世の中のことを色んな観点から見るという事はかなり難しいと思う。
大学では一般教養で文系理系いろんな講義(いわゆるリベラル・アーツっていうのかな。)が取れたので、それが後々非常に栄養になった。
まあ、いちばんのメリットは時間がたくさんあるということだと思う。
大学図書館で色んな本を読めたのは一番大きかったように思う。
高校卒業してすぐ就職したら、読書をする時間はそんなに持てなかっただろう。(そもそもどんな本が世の中に存在するかもあまり知らなかったかも・・・)
最近は大学教育がどんどん専門学校的になっているような気がする。(実際に見ていないので、判らないけれど、ニュースを見た限りでは、ね。)
就職の問題が大きすぎるので、しょうがない面もあると思うが、リベラル・アーツ的なものが軽んじられているとしたら、もったいないことだと思う。

大学の目的のひとつは、「多様な観点から物事を考えることが出来る人間を養成する」という事ではないだろうか。