壺中天日乗

メモ帳

政治の言葉づかい あるいはネット上での議論について

ハロルド・ピンター「何も起こりはしなかった ―劇の言葉、政治の言葉」を読んで以来、政治の言葉について考えている。
そして、以前読んだ本の以下の箇所を思い出した。

養老孟司 さっきも言ったように、良し悪しの判断は、脳の中でも言語とは違う部分に入ってしまうんです。我々の脳は、簡単に言ってしまえば、大きく表面に出ている新皮質と、その周りにある辺縁系という古い部分からできていて。視覚、聴覚、触覚というのは、すべて新皮質に入るわけです。そこで言語という機能が生まれる。一方、味覚や聴覚の約半分、また善悪の判断とか感情というのは辺縁系の機能なんです。


――ちょっ、ちょっと待ってください。つまり、善悪の判断は言語的でない、ということですか?言語にならないということは、論理的でないということになってしまうと思いますが・・・・・・。


養老孟司 そうですよ。論理的でない。だから、あなたが悪いと思っていることを僕がすれば、あなたは怒るでしょう。必ず感情が伴う。怒る理由をいろいろ言うけども、それはあとからくっつけた理屈でね。はっと気がついたら怒ってるわけです。こういうのは辺縁系の機能です。動物でいえば、獲物を見て「食えるか食えないか」を判断しているのと同じ部分ですよ。社会的な善悪といったって、その程度のものです。*1

世界史の教科書を読むと、ほんとうに人間は感情で動いている気がする。しかし人間は長い歴史を経て、感情より理性を優先させるように努力してきたということもまた、間違いのないことだと思う。「人間の歴史は感情から理性への歴史である」といえる。

しかし最終的には、先の養老さんの話のように、人間は感情で動く。であるから、もし、ある人が政治的影響力を行使したければ、感情に訴えることがどうしても必要になる。そう考えると、政治の言葉はマキャベリスティックにならざるを得ない。アジテーターにならざるを得ない。
芸術家が政治にあまり興味を示さないことが多いのは、この政治性が受けつけないからだと思う。
「人間は所詮感情の生き物なんだ」という諦観が強い人ほど、立派なアジテーターになるのだと思う。そして、実際に人気が出る。

人間は感情で動くが、現代の人間は感情より理性を優先させる人もいる。
しかし程度の差がある。
「感情より理性を優先させる人」は俗に「話がわかる人」といわれるのだと思う。
そして、「理性より感情を優先させる人」は、「話がわからない人」だといわれる。
しかし、どっちがより多いかといわれれば、「理性より感情を優先させる人」にならざるを得ない。(医学的に見て、最終的には、人間は感情で動くわけなので。)

ルールがないと、喧嘩になってしまうから、今のような政治システムが出来上がったのだと思う。(その今でさえ、たまに騒ぎが起こるが・・・)
そう考えると、ルールもなにも無いネット上で議論をするのは、あまり生産的にはならないのではないだろうか。
傍から見ていても、ほとんどが喧嘩別れに終わっているような気がしてならない。


何も起こりはしなかった ―劇の言葉、政治の言葉 (集英社新書)

何も起こりはしなかった ―劇の言葉、政治の言葉 (集英社新書)

*1:ビートたけし「ザ・知的漫才 結局わかりませんでした (集英社文庫) 」p68-69