壺中天日乗

メモ帳

坪内祐三『一九七二―「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』(文春文庫)

坪内祐三は自称保守だが、「本当に保守なのか?」という疑問が以前からあった。特に週刊スパで現在も連載している「文壇アウトローズの世相放談・これでいいのだ!」という福田和也との対談で「でも結局、皇室がなくなっても日本は変わんないと思うんだよ。うん。皇居に爆弾とか落ちて、そこがまさに『空虚な中心』になったとしても、今の日本は変わらないよ。このペラペラの国はね。」*1という発言を読んだ時は「オイオイめちゃくちゃアナーキーだな。どこが保守なんだ?」と思ったものだった。
しかしこの本を読んで一応自分の中でそれの答えが出た。それは後に触れる。

本書は『文化評論』と銘打たれている。文化評論てのは初めて見る言葉だ。本書の内容をかいつまんで言うと、「1972年の日本で起きた出来事を散文的に描き、当時の時代精神を出来るだけ立体的に浮かび上がらせようとしている」ということになるだろう。所々私小説みたいになったり、エッセイっぽくなったりしているが、これは出来るだけ多面的に1972年を描きたいという作者の狙いがそうさせているのだと思われる。時代精神を描くためには重層的および多面的な描写をし、読者をして重層構造に導く必要があるが、本書の散文的記述はその目的意識が反映された結果だと解釈している。

以前読んだ本で、坪内は自身を「文化史家だと思っているが、分かりにくい肩書きなので、めんどくさいときは評論家で通している」といっていた(どの本だったかは忘れた)。本書の筆者紹介では「文芸評論家」となっている。
本書は文化史家としての坪内の本領発揮といえよう。
1972年を選んだ理由は冒頭で語られている。副題にもあるように、要するにこの年は激動の一年であり、日本人の生活様式および精神様式が激変した年である。この一年を振り返ってみることで日本人が新たに獲得したもの、そして失ってしまったものを考えてみたい・・・という感じである。ということで「日本人」である。テーマは1972年であるが、それを鏡としてだれに向けられているかといえばそれは日本人であり、本書の本当のテーマは日本人といえる。

私は連合赤軍浅間山荘事件と雑誌『ぴあ』創刊についてが面白かった。
書いていくうちに熱が入ってしまったと坪内もいっているが、連合赤軍に関する文章が多い。たしかに面白い。かくいう私も最初はこの本にそんなに乗り気ではなかったのに連合赤軍のところではまってしまい、最後まで読んでしまったというクチなんである。

連合赤軍赤軍派京浜安保共闘が合体して生まれた組織であるが、もともと両者の組織文化には違いがあった。それにもかかわらず合体したのは、カネはあるが武器のない赤軍派とカネはないが武器はある京浜安保共闘がお互いに相互補完できると考えたからである。
友好関係を互いに志向しつつも両者は反発と負い目(特筆すべきなのは、「京浜安保共闘は規律のためにメンバーを総括しているが、俺達はまだそこまではしていない」という旧赤軍派の負い目)の間で揺れ動き、そしてついに旧赤軍派のメンバーで一番意識の低い(と周囲から目されている)遠山美枝子が総括される。

坪内は当事者のテクストを縦横に引用しながらその様を描いているのだが、ここはホントに面白い。組織がどうやって崩壊していくのかがつぶさにわかる。他人の行動を必要以上に重く解釈して皆の行動がエスカレートしていく様は戦慄した。組織におけるこの感じは自分にも経験があるからだ。これはまったく他人事ではない。

『ぴあ』について。坪内は嘆く。この雑誌により映画が情報化社会の波に乗り、それまであった「一過性がもつ手ざわり」が消失してしまった・・・しかしそれは序章に過ぎなかった。
日本はその後ファスト風土化しデオドラントされ無表情になり一過性がもつ手ざわりを加速度的に失ってしまった・・・そして今はスーパーフラット・・・ここは失われた郊外・・・といっているような気がする。(いってないけど)
たしかに地方在住者として「一過性がもつ手ざわり」の消失は切実に感じる。たまに近隣県(香川とか高知)に行ってもホント似てるんだよな。昔ながらの商店街はシャッター通りになってて、皆大型ショッピングモールに行っているという状況。しかもこの傾向は年々ひどくなっている。

ここまで書いてきて実はこう思わないでもない。「所詮東京で起きた出来事ばっかりじゃねーか」と。1972年以降の徳島に生まれ徳島で育った私からは全然遠い。『連合赤軍』?『ぴあ』?『プロレス』?そんなん知らんワ・・・という気持ちがある(ここまで書いてきて気付いたが、この本はTVがいかに国民意識の賦活に重要な役割をしてきたかが間接的に示されている。TVが無ければ、たとえば赤軍事件はここまで伝説にならなかっただろう)。東京だろうがアメリカだろうが同じくらい遠い・・・むしろアメリカより東京に親近感を感じるのがなにか、おかしいんじゃないかという気がする。私はなにか騙されているんじゃないのか?(かといってアメリカに親近感を感じるわけでもないけど)
とはいえ日本人である私はやはり東京を中心とするこの日本をこそ準拠集団にしないといけない(税金とか払ってるし)。そうせざるを得ないという気持ちも85%くらいある(でも東京テほとんど行ったことないんやケド)。
ここで「想像の共同体」という言葉が私の意識に上る。この本は失われた日本を出来るだけ具体的――いっそ文学的といったほうがいいが――に描くことで読者に1972年的日本を追体験させようとする。
国民とは「想像力により立ち上げられた共同体」という意味で、本書は1972年をひとつの核として、想像の共同体を再び立ち上げようとしている。(そして、自分達の失ったものを数えてみようともしない現代日本人に怒っている。)
確かに、これは保守の思想である。やはり筆者は保守であった。

正義はどこにも売ってない-世相放談70選!

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*1:坪内祐三,福田和也『正義はどこにも売ってない』p93 扶桑社