壺中天日乗

メモ帳

ベンヤミン『複製技術時代の芸術』

以前読んだことがあったのだが、その時はなんかよくわからないなって感じだった。最近再読する機会があり、読んでみると色々思うところがあった。
とりあえず要約を作ったので以下に載せる。ちなみに読んだのはベンヤミンボードレール』(岩波文庫)に収録されている『複製技術時代の芸術』(第二稿)である。カッコ内のページ数は岩波文庫版に対応している。
要約といっても理解できなかった部分は書き落としているし、よくわからなかった部分は「たぶんこういうことが言いたいんだろう」と自分の言葉に置き換えた部分もあるので、そのあたり注意。これを読んで原文に興味が出てもらえればいいなと思う。

I
ここで新しく導入される諸概念は、芸術政策における革命的な要請を定式化するための役に立つ。(p62)

II
写真はトーキーの可能性を秘めていた。(p64)
1900年を画期として、複製技術は芸術作品の影響力に深刻な変化を生じさせたが、それだけではなく、芸術家達の行動のあり方まで変化させた。(p64)
この変化を分析するためには、「芸術作品の複製と芸術作品とが従来の形態の芸術にどのような逆作用を及ぼしているか」を明らかにすることが役に立つ。(p64)

III
芸術作品は一回性を持つことで歴史に参加している存在である。壊れたらなくなってしまう存在であることも歴史性を帯びる原因のひとつである。芸術作品は歴史性により付与された重みにより、アウラを生じさせる。
複製技術は歴史性を根底から震撼させる。同時にアウラを芸術作品から消失させる。しかし一方で、複製された芸術作品にアクチュアリティーを付与する。この二つの過程は今日の大衆運動と密接に関連している。
この点を最も代表しているのが、映画である。(p67)

IV
アウラとは、時間と空間が一体となったもので、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。(p69)
大衆は事象の一回性を克服しようとしている。(p70)
アウラの崩壊は現代大衆社会の特徴。(p70)

V
芸術作品は歴史に埋め込まれることでアウラを獲得したが、そのときの参加する仕方は「礼拝の対象となること」であった。言い換えると、アウラの獲得には一種の儀式が必要であった。革命的複製技術である写真と社会主義により、この芸術作品の宗教的あり方は変容を余儀なくされた。芸術は「芸術のための芸術」という一種の純化という形で反応した。ここで芸術の社会的機能は総体的に変革される。芸術作品は儀式ではなく政治を根拠とするようになる。(芸術が権威付けられる過程に政治が介入してくるようになったということ。言い換えると国家により芸術に当たるスポットライトがコントロールされるということ。)(p72)

VI
芸術作品の推移
価値に関して
①礼拝的価値(人が移動する)魔術的オーラ、重厚さ、荘厳、真剣
②展示的価値(作品が移動する)軽さ、無拘束性、遊戯性、ポップ
*①から②の変化により作品の質も変化した。

性質について
①昔のアート:人が投入される
②今のアート:人が投入されない+技術が投入される。一回性なし。遊戯的。(p75)

現代の芸術の社会的機能は、「自然と人間との共同の遊戯をめざすもの」である。このことは特に映画についていえる。
映画は、人間が社会との密接なかかわりによって条件付けられた知覚・判断能力を、また反応能力を、人が練習するのに役立っている。

VII
①礼拝的価値と②展示的価値の闘争は写真において、わかりやすい形で現れる。①をもつのは顔写真であり、②をもつのは街路の写真である。(アジューの写真)②には意味づけにより受け取られ方が変わる余地がある。ここに政治的意図がつけ込むスキがある。アジューの作品は見る人を不安にさせる。意味を欲望させられるのだ。これは映画により発展させられることになる。(p78)

VIII
古代の芸術は複製技術がないという条件から、永遠を目指して創作された。映画の出現によって、芸術作品に決定的に重要となったもの、――それはギリシア人からはもっとも認めがたいもの、本質的でないものなのかもしれないが――それは編集による改良可能性である。映画はミメーシスでは決してない。(p79)
改良可能性は永遠なるものを断念するということである。(p80)

IX
複製技術の時代が芸術を、その礼拝的な基盤から切り離したことによって、芸術の自立性の輝きは永遠に失われた。だがそれとともに生じた芸術の機能変化は、十九世紀の人々の目には入らなかった。

X
人は映画から夢を見ることを学ぶ。

XI
アウラは人間がいま・ここにあることと切り離せない。アウラの複製などはない(p87)

  • 映画の芸術=芸術の模倣

XII
映画の観賞崇拝もまた、スター崇拝と並んで大衆の心性の腐敗を促進しているが、この腐敗した心性こそ、ファシズムが大衆の中に、階級意識に代えて植えつけようとしているものに他ならない。(p90)

XIII
映画は生産者と消費者との垣根を揺るがせているという意味でも革命的である。西欧の映画資本は映画への大衆の根源的で正当な関心――自己認識、それとともに階級的認識への関心――を腐敗した方向(スターの出世物語、恋愛、美人投票など)へ逸らせている。一般にファシズムに妥当することが、特殊には映画資本に妥当する。すなわち新しい社会構造への不可避的な要求が、少数の有産階級に好都合なように、こっそりと搾取されている。ゆえに映画資本を接収することはプロレタリアートの緊急の必要となっている。

XIV
映画は編集が深く関わっており、その点が映画を考える上で重要である。(p95)

XV
映画はコード導入により大衆の人気を獲得することに成功した。「一度に大勢の人々によって見られる」という点もコード導入に味方した。映画はマスゲームに近いものになった。(p96)

XVI
映画には異化作用がある。
映画はサディストやマゾヒストの妄想を強調して展開してみせることで、大衆の社会に対する不満のガス抜きをしている。

XVII
昔から芸術の課題としてもっとも重要なもののひとつは、新しい需要を作り出すことであった。芸術の衰退期には、既存の芸術の破壊が起こる。
映画はダダイズムが小規模で行ったことを大々的に展開した。すなわち、破壊によるカタルシスである。ダダは既存の絵画ないし文学を破壊したが、今では映画がダダに代わり、ビルや人間を破壊している。

XVIII
大衆が母体となって、芸術作品の需要態度が変化している。量が質に転化している。それは、「精神集中からくつろぎ」、「作品に沈潜から自分の中に作品を沈める」、「能動的態度から受容的態度」である。
このとき、建築を例にとるのがわかりやすい。建築が人間に及ぼす作用について研究することは大衆と芸術作品との関係を考える上で重要である。
建築は慣れを通過した後の静観という形で人間に受容される。
芸術は次第にくつろいだ受容に接近している。鑑賞者はそれにあわせる必要があるが、映画はその練習場になっている。映画はそのショック作用(自ら変化し続け鑑賞者を刺激し続ける)をもって、くつろいだ形態の受容に対応している。(p106)

XIX
現代人のプロレタリア化の進行と、大衆の組織化の進行とは、同一の事象の二つの側面である。新しく生まれたこのプロレタリア大衆は、現在の所有関係の廃絶(=革命)を目指しているが、ファシズムは大衆に対して権利ではなく、表現の機会を与えることを好都合とみなす。
ファシズムは現状を維持しつつ、大衆に<表現>をさせようとする。その結果、政治は耽美主義に行き着く。この努力は一点において頂点に達する。戦争である。技術の面からはこういえる。「戦争だけが、所有関係を維持しながら、現在の技術手段を総動員することが可能である」と。
未来主義者マリネッティは戦争を賛美した。生産力の自然な利用が所有の秩序によって邪魔されると、増大する一方の技術的な補助手段やテンポや動力源は不自然な利用へと駆り立てられてゆく。戦場がその実践の場となる。
ファシズムの耽美主義はすでにそういうところにまで来ている。コミュニズムはそれに対し、芸術の政治化をもって答えるだろう。(p110)

*  *  *

メモその1
映画におけるスクリーンは常に変化していく。見る人は受身にならざるを得ない。この時の見る人の精神状態を沈着と私は言う。心はスクリーンを映すために静止する。これは知覚器官における深刻な変化(TV等のメディア・車での移動による見え方の変化)に対応するものである。


メモその2
戦争は、メディアの機械装置に向いた行動形態なのだ。言い換えると、戦争は映画栄えするということである。

次に、ちょっと前に他の場所に書いた文章があるので引用する。映画をキーワードに本論を再度言い直したというような内容になっている。(加筆修正してます)

まず読んだ感想なんですが、だいぶ錯綜したテクストですね。よくわからない記述がたくさんありました。読み手はこれを養分として自分なりの思考を膨らませればいいと思いました。
以前少し述べた商品化という概念ですが、なぜここでベンヤミンはこの概念を出さないのか不思議に思いました。
芸術と大衆と資本主義の関係を考える上でこの概念が出てこないのがむしろおかしいというか。生意気かもしれませんがこの点で本テクストは認識不足なのではないかと思いました。
映画に論点を絞って述べます。まず芸術が複製技術を獲得した結果歴史性を消失し同時にアウラも失ったといってますね。
言い換えれば礼拝的価値から展示的価値への転換であり、それに伴い芸術は重厚・厳格から無拘束性・遊戯性を特徴とするように変容したといってます(VI)。人によっては「この転換はモダンからポストモダンへの転換だ」というと思います。ポップアートの萌芽ですね。
(VIII)で芸術の改良可能性について語られていますが、これは商品化で説明できると思います。イデアを目指したギリシア芸術と興行収入を至上命題とする映画では創られ方が違うのはむしろ当然だと思います。仮に映画もイデアを目指していたならば、改良は(イデアに近づく以外の目的では)されないと思います。映画は商品なので大衆の欲望を受けます。そして同時に大衆のガス抜きとして使われます。(XII)で映画は政治に利用されるという不気味な記述があります。なので、プロレタリアートは映画資本を接収しなければならないとも(XIII)。
映画により人間の芸術の受容のされ方は決定的に変化しました。能動的から受容的にです。その結果、普通の芸術は「難しい」ものになりました。普通の芸術が難しくなったのではなく、映画により能動的感受性が衰退したということです(XV)。ここに政治が付け入る隙があります。つまり、ファシズムによるプロパガンダに利用されるということです。ファシズムは革命が起こらないように、大衆に自己表現という飴を与えます。
(XIX)に至り、テクストは黙示録的な世界に突入します。
大衆操作の過程で政治は美学的になり、国家は耽美主義を選択します。そして、最終的に戦争が選択されます(XIX)。
(XIII)で「映画により消費者と生産者(俳優)の垣根は揺らぐことになった」という意味の記述がありますが、ここへきてその記述が意味を持ってきます。すなわち、技術の浪費・映画の実現としての戦争です。
しかし、ここはさすがにベンヤミンの勇み足だと思います。
とはいえ、これが成立した時期が1936年という、まさにWW2を準備しつつあった時代であることを鑑みれば、時代の刻印がここにくっきりと見られるといえるでしょう。

上の文章は本論を映画という側面から論じたものなので、考えた内容すべてを盛り込むことができなかった。なので以下盛り込めなかった点に関して言及する。


  • 本論は芸術に論点をおいた政治論文である。

まず思ったのが、「これは芸術論なのか?」という問題である。しかしこれはある意味簡単な問題だと考える。「本論はなにか?」といわれれば、それは「芸術に論点をおいた政治論文である」といわざるを得ない。最初におかれるIと最後におかれるXIXを読めばそれは明らかだ。途中で出てくるアウラの消失やら大衆が与える芸術への影響やらは「ファシズムが芸術をコントロールし大衆を洗脳し戦場に連れて行くからヤバイ」という結論を導くための各論に過ぎない。
とはいえ読者たる我々は好きなように読めばいいわけなので、本当は「本論はいったい何か?」という問題は些細な問題だ。ただ、「本論は何だ?」という問題を考えることでベンヤミンの言いたいことがより理解できる可能性があるので、いま考えてみたということなんです。なんかまどろっこしくてすみません…
本論はテクストが錯綜しているので「まとめると確かにわかりやすくはなるが、内容が痩せる」というやっかいな罠が潜んでいる。
私は本論を芸術論として読みたい。それが一番面白いと思うからである。
本論を芸術論として読むと、内容は「大衆文化論を迂回した芸術論」となる。まず芸術論として出発し、途中大衆文化論を経由し、また芸術論に戻るという構成をとっている。それならそれでいいが、途中いろんな事を盛り込みすぎだ。統一性を欠くレベルにまでなっている。
いっそ箇条書きにするか、稿を改めればよかったと思う。

もしくは以下のように、

1章 芸術価値変容論
2章 大衆社会における芸術
3章 ファシズム国家が映画を利用して俺たちに戦争をさせたがってる件について

とか、最後ラノベみたいなタイトルになってしまったが(でもラノベのタイトルってわかりやすくていいよね)、とにかくそんな感じで小題をつけて論じたらまだわかりやすくなったのではないだろうか。

「芸術が行き詰ると破壊の運動が起きる。ダダイズムはそのひとつの現れである」という話は面白いと思った。ただ、そんな単純な話か?という疑問も湧く。
ダダイズムとはちょっと違うが、シュルレアリスムは、シュルレアリスム宣言を読めば、それなりに方法論のある芸術運動だということがわかる。
シュルレアリスムについてブルトンは、想像力を開放し「必要とあれば私たちの理性の監督下においてやる」とシュルレアリスム宣言で言っている。*1 ダダイズムシュルレアリスムの違いはあまり明確にはなっていないが、ダダイズムを理論化(ある程度)し洗練させたものがシュルレアリスムなのかもしれない。
「芸術が行き詰ると破壊の運動が起きる」の件で思い出したのだが、一時期エレクトロニカが大いに盛り上がった時期があった。たしか90年代末期だった。テクノがどんどん踊れなくなっていってベッドルームテクノとかブレインダンスとかインテリジェンステクノとかIDM(Intelligent dance music)とかいわれてた時代だった。その話題の中心にいたのがオウテカだった。『コンフィールド』(2001)が出たときはロック系の雑誌も注目しててなんだか異様なブームになっていたのを覚えている。レディオヘッドオウテカに影響を受けたと言ったとかいやいやビョークは前からエレクトロニカだったぞお前らおせーんだよ!とかなんとか雑誌やらネットで言われててそれもブームを加熱させてた。『コンフィールド』って今聴いてもめちゃくちゃ硬質で廃墟が暴れてるみたいな前衛の臨場感が横溢する凄い音だもんな。前作『LP5』はあんなにポップだったのに。その後のオウテカはちょっと行き詰ってるのでは?…みたいな音になったが、いやあ、あの時は楽しかった(ってそれがオチかよ)。あと電気グルーヴも活動休止間際はLIVEでノイズっぽい音出してて「ああ電気もそっち系にいくのか…」と危惧したものだが案の定というかなんというか活動休止してしまった。それから活動再開したとき最初のアルバムのタイトルが『J-POP』だったのはやっぱり色々模索した結果なんだろうな。
話がそれすぎた。
えーと、つまりテクノというジャンルもマンネリの壁を乗り越えようとしてあがいていたというわけだ。

  • 「芸術の政治化」とはなんぞや?

最後にちょっと言及される、芸術の政治化というのが気になる。一切の説明はないこの言葉をいかに捉えればいいのだろうか?私の考えでは、

①防御運動 映画の内容を研究吟味することで、国家の悪巧みを暴き、大衆を啓蒙する
②攻撃運動 いわゆるプロレタリア芸術により、プロレタリア大衆を目覚めさせ、革命を起こす

の二つに分けられるんじゃないかと想像する。ここはもっと詳述して欲しかった。
①は今でいうカルチュラル・スタディーズに当てはまる。ベンヤミンカルチュラル・スタディーズの元祖といわれるのはこのへんに理由があるのだろう。

  • 私はアウラという概念を勘違いしていた

最初に読んだのはたしか3年前くらいだが、それから今回再読するまでに私の中で勝手にアウラの意味が作られていたようだ。
私はもっと能動的なものかと思っていた。
私の考えるアウラというのは、芸術でもモノでも人間でも小説の登場人物でもなんでもいいが、それがたどってきた運命やら質感を自分の体験のように感じること。一種の同化だが、その同化およびそれからの離脱により今生きているということのかけがえのなさを改めて認識すること。これがアウラだと思っていた。しかし今回再読して、それが全然違うということに気付き、正直失望した。どっちかというと、私が考えたアウラの方がいいと思うんだがな。まあ個人的にこれを自己流アウラ(私のHNから楚川アウラと呼ぶことにする)ということにしてこれからも胸に秘めて生きていこうと思う。その点でベンヤミンさんに感謝。

  • アウラという概念は大衆に適用する場合に生きてくる概念である

アウラとは芸術作品が放出するものとされている。そしてベンヤミンは本論でこれを芸術価値変容問題の基礎に据えているのだが、ここで疑問に感じたことがある。
芸術作品は見る人により素晴らしく見えたり、わけがわからなかったり、つまらなかったりするものだ。つまり見る人によって全く解釈が変わってくるものだ。しかしここでベンヤミンは見る人の感性の違いの問題には全く触れていない。なぜだろうか?この答えは割合簡単にいえると思う。
それは、本論は「芸術と大衆との関係性を問題にしている」からである。大衆を扱うときに「芸術は見る人によって解釈が変わってくる」などと言い出したら途端に大衆を扱えなくなる。ベンヤミンは大衆を完全に芸術に対して受け身な、いうなればエサを待っている金魚鉢の金魚みたいな存在として扱っている。ここは重要な点だ。つまり、芸術に対して能動的に向かい合うような人にとってはアウラという概念は相性が悪い。それは大衆に適用するときに生きてくる概念なのである。

  • アウラは本当に消滅しているのか?

映画はアウラのない芸術と言われているが、どうも疑問を感じる。たとえば東京物語のフィルムはニューヨーク近代美術館に所蔵されているという*2これってアウラ出てるんじゃないのか?ちょっと違うかもしれないが…しかし歴史の一部に完全になってるってことだし…
あと今でも古典的芸術は権威を持っているし、たとえばモナリザのプリントは複製技術で世界中に広まっている。それは本物をますます権威付けしているし、プリント自体もそれなりに楽しまれている。「大衆はモナリザのプリントなんぞからアウラを感じていない」とベンヤミンはいうかもしれない。しかし芸術に対して能動的に向かい合うような人にとってはアウラをもった存在として扱われているのではないだろうか。
私の生まれた徳島県には大塚国際美術館*3というものがあり、ここでは世界中の美術作品の「陶板名画」を展示している*4。そしてわりと人気を博している。私も何回か行ったが、いろんな『受胎告知』をひとつの空間に展示している場所には圧倒された。ベンヤミン大塚国際美術館を「アウラがない」といえるだろうか。
アウラは、たとえ複製されたものであったとしても、芸術に対して能動的に向かい合うような人にとっては存在している。私はそう考える。

  • XVIIIとXIXの謎

XVIIIは芸術の受け入れられ方が変わってきていることを指摘し、建築を引き合いに出し芸術の未来を想像するという牧歌的で落ち着いた内容なのだが、その次の章であるXIXでは恐ろしい事を言い出す。(前述のまとめでも触れたが)映画は大衆を戦争に連れて行くと喝破している。「人類の自己疎外は、自身の絶滅を美的な享楽として体験できるほどにまでなっている。ファシズムの推進する政治の耽美主義は、そういうところにまで来ているのだ。」*5ベンヤミンは確かに言っている。
なんでここまで論調が違うのか不思議だ。XVIIIとXIXの間には断絶がある。間違いなく間隔を置いて書かれたのだと私は思う。そもそもどちらが先に書かれたのかも私にはわからない。
この両テクストの間になにかベンヤミンを驚かせる出来事があったに違いない。しかし、なんでこんな毛色の違うテクストを連続して置いたのかが疑問だ。私ならどちらかをボツにするか、無理やり論調を合わせる。これは読者を困惑させると思う。それともビックリさせたかったのだろうか…?謎だ。

  • 映画はそこまで支配的か?

映画は革命的芸術&巨大な影響力だとうたわれているが、現在はそこまで支配的だとは思えない。どちらかというと、主なメディアの舞台はインターネットに移行したと感じる。インターネットも企業や国家のコントロールを受けているというウワサもあるが、少なくともTV・映画よりは断然自由だ。ベンヤミンの言った「プロレタリアの自己表現」はインターネットにおけるSNSやらYouTubeやらニコニコ動画やらで既に実現してしまっている(必要ならここでバカッターという言葉を思い出してもらってもよい)。しかし、これはしょうがない。当時インターネットなどなかったのだから。ベンヤミンは悪くない

  • 戦争前夜の芸術論

それにしてもXIXはおっそろしいなあ。終末感が漂ってる。まあベンヤミン22歳の時にWW1が起こってるから、しょうがないか。そして死後3年後にWW2が起こっている。まさに戦争の時代に生きた人間なのだが、本テクストには時代の刻印があちこちに見られる。てか『戦争前夜の芸術論』っていうタイトルいいなあ(自画自賛)。いつかこのタイトルどこかで使いたいな。

XVIIIでは「芸術の受容のされ方が変化してきている」と書かれている。「受容のされ方は緊張からリラックスへ変化した。そして芸術の未来は建築にある」と指摘する。ここでベンヤミンは色んなわかりにくいことをいっているのだが、私はこれを「アンビエント」という概念でまとめたい。アンビエントとはブライアン・イーノが提唱した概念であり、本来は音楽に関する概念である。
私はこれを芸術全般に適用したい。アンビエントとは日本語では環境であるが、環境だとなんとなく味気無いイメージが付いてしまっているので、あえてアンビエントのまま使用したい。ベンヤミンの本論XVIIIにおける考えを継承発展させて、この場でアンビエント芸術を提唱したい
ではアンビエント芸術とは、いかなる概念であるか?

アンビエント芸術
アンビエント芸術は押し付けない。こちらが芸術を求めたときに、にわかに芸術としてのアウラを開示してくれるものだ。そして普段は風景の一部になっている。例としては自分の部屋に張られているポスターや窓際の人形などを想像してもらえばよい。

そう、アンビエント芸術はすでにあなたの部屋に存在しているのだ。そして、こういった普段着の芸術こそが現在既に求められているし、これからも求められているのだ。
ここでいうアウラベンヤミンのいうアウラとは少し違う。
ここで歴史(世界史)に対峙する概念として個人史を提唱したい。ベンヤミンは歴史(世界史)への参加によりアウラが発生するとした。ここでいわれているのは一種の歴史意識である。では歴史とは何か?人間の共通の記憶の集合体である。私はどうしてもこの「人間の共通の記憶の集合体」がウソくさく見えてしょうがない。というか、「人間の共通の記憶の集合体」なんて可能だろうか?集合する過程で抽象化され物語化され個人的感性のような繊細なものは消えてしまう気がしてならない。それともベンヤミンはここでもっと別の概念に意識が向いているのだろうか。たとえば人類の運命のような。
とはいえ、私は世界史より個人史のほうがずっと重要に思えるし、親しみもわくのである。一回性という概念だって世界史より個人史との親和性が高いはずだ。たとえば「この人形はここのお店で手に入れた」「この古書には前の所有者による署名がある」「このポスターはあの雑貨屋で手に入れた。あの日は雨が降っていた」というような。これらは些細であるがそれだけ個人と強く結びつくし、「かけがえのなさ」も強く私に訴えかけてくる。それに較べれば世界史など、ずっと遠くの出来事に思える。
そしてこの個人史的アウラは複製技術の時代である昨今においても依然失われていないのだ。それに上でも言ったが、芸術に対して能動的に向かい合うような人にとってはそれが複製だろうがなんだろうがアウラは確かに存在しているのだ。つまりアンビエント芸術とはアウラと個人史的アウラの二種類を身にまとった存在なのである。
アンビエント芸術は今日もあなたのそばにある。

ベンヤミンナチスに追われ逃亡を試みるも断念し、山中で自殺したというのが通説になっているが、このテクスト全体から感じた「あふれすぎる好奇心」「まとめ切れないという詰めの甘さ」から、どうもベンヤミンは危険地帯にとどまって、毎日大衆や街並みを観察してたんじゃないかという気がする。観察が楽しすぎて、つい逃げおくれてしまったんじゃないだろうか。なんというか、そんな妄想が捨てきれない。
殺気立った夜の街並みを独り徘徊するベンヤミンの姿が、どうしても脳裏に浮かんできて、いつまでも消えない。


ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

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シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

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confield [帯解説付/ボーナストラック1曲収録/国内盤] (BRC34)

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