壺中天日乗

メモ帳

掌編の時代

古本屋でいつもどおりあれこれ物色していたら、「日本プロレタリア文学集」の端本数冊が目に入った。箱の裏に収録作品が載っていたので確認していると、ふと目に留まるものがあった。「日本プロレタリア文学集・第20巻 『戦旗』『ナップ』作家集 ⑦」の収録作品に、「掌編・壁小説集-六十編」とある。表紙をめくり、目次を見ると知らない名前が多数並んでいた。小林多喜二、徳永直、高見順の他に、村山知義片岡鉄兵等もあった。気になったので買い求め、今ちょっとずつ読んでるが、これはなかなかいいね。
村山知義が小説を書いていたことは知っていたが、実物ははじめて見た。
どれもこれも3-4ページですぐに読めるからつまらなくても別に気にならない。面白いものもあるし。ストーリー的につまらなくてもルポルタージュとして読めばどれも面白い。

思うにこういう掌編は今の時代にもあっていると思う。
今の時代、日本人は仕事が毎日忙しく、一日に読書に当てる時間はほとんどない。一日に20ページ読めれば上出来だろう。小説はある程度まとめて読まないと内容が頭に入らないという事情を考えると、日常にあって長編を読むのは結構しんどいと思う。家族がいればなおさらである。
そして、今は小説以外にもケータイやらSNSなどいくらでも娯楽がある。読書という行為はどんどん端の方に追いやられている気がする。
そういう状況にあって、すっと入れて、すっと出られる掌編は、まさに今求められているのではないか。
多忙な日常生活にあって、つかの間の別乾坤を体験させてくれる読書、一杯の珈琲のような読書というのが今求められているのではないか。
そこで思い浮かぶのは、バーセルミ中原昌也である。どちらも一杯の珈琲・・・の比喩にふさわしい、か、な。どちらも苦そうだ。