壺中天日乗

メモ帳

ハロルド・ピンター「何も起こりはしなかった ―劇の言葉、政治の言葉」 (集英社新書)

日本での知名度はいまひとつですが、イギリスを代表する劇作家であり、ノーベル文学賞受賞者であるハロルド・ピンターの発言集です。
この本は次の三章からなっています。

ノーベル文学賞受賞記念講演
Ⅱ世界情勢を見つめる
Ⅲ創作活動について

冒頭に収録されている、ノーベル文学賞受賞記念講演「藝術・真実・政治」の原文はネットで公開されています。

Art, Truth & Politics by Harold Pinter [英語]
http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/literature/laureates/2005/pinter-lecture-e.html

この講演は、この本のいわば要約になっていると思います。

有志が、日本語に翻訳して、ネットに公開してくれています。

ノーベル文学賞 受賞演説(全文) [日本語]
http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/2005/12/for_the_record__962d.html

今回、感想を書こうと思ったのですが、このノーベル文学賞受賞記念講演を読んでもらえれば、私が付け加えることは特に無いように思います。

感想を書く代わりに、本書から、印象に残った文章をいくつか、引用しようと思います。

■世界情勢について。

大使は私に向かって言った――「ピンターさん、あなたはこの地域の現実がおわかりではないようですね。よろしいか、国境のすぐ向こうはロシアです。そういう政治的現実、外交的現実、軍事的現実を忘れないでいただきたい」私は答えた――「私が問題にしていた現実とは、生殖器に電気を流すというやり方なのです」大使は居ずまいをただすと俗に言われる姿勢をとって、私を睨みつけた。「ピンターさん、あなたはこの家に客として来られておるのです」彼は言い、踵を返すと俗に言われる動きをした。補佐官たちも同じことをした。急にアーサーが目に入った。「どうやら放り出されたらしいよ」と私は言った。「一緒に行こう」とアーサーはためらうことなく言った。アンカラのアメリカ大使館から、望んで追放されたアーサー・ミラーと一緒に放り出されたのは、私の生涯の最も誇らしい瞬間のひとつだった。(p54-55)

イラクで拷問が行なわれていたことが明らかになりましたが、誰も驚かなかったはずです。アメリカ人は何年も前から拷問を輸出してきました。アメリカが長年にわたって、ジョージア州フォート・ベニングで、種々の独裁政権の軍の代表たちに拷問の技術を教えてきたのです。フォート・ベニングの施設は米州軍事学校と呼ばれていましたが、実際には「拷問学校」として知られていました。ここで教えられていた技術は、アメリカ国内でも用いられています。すなわち、アメリカ全土を通じて無数の監獄があり、二百万以上の人が収容されているのですが――その大多数は黒人です――これらの人たちに対してそれが用いられているのです。拘束椅子に全裸の囚人を縛りつけ、大小便を垂れ流すまま何日も放置したり、ガスやスタンガンを使ったり、無差別に暴力をふるったり、若い男女を組織的に強姦したり虐待したりする――これ以外にも、人間の尊厳をそこなうやり方はいろいろありますが、これらはすべて広く実行されているものなのです。(p127)

世界中のテレビは、私の理解によると、今ではほぼ三人の人間によって事実上支配されています。あるニュース番組を見ようとすると、このバルセローナやロンドンで見られるのとまったく同じものがサハラ砂漠でも見られるのです。なぜなら、それは大元で統制されているからです。別の言い方をすると、そのニュース番組は注意深く選ばれており、厳密に統制を加えたニュースがどこからか流されてくる・・・・・・ルーパート・マードックという名前をもう少しで口にするところでした。しかし、ルーパート・マードックひとりの問題ではありません。現在のイギリスでは、野党が――それはおそらく次に政権に就くだろうと思われますが――ルーパート・マードックと非常に友好的な関係を結んでいます。野党がそういうことをするのは、自らも獲得したいと思うような権力をマードックが握っているからです。これはきわめて腐敗した事態です。要するに、権力は金であり、金は権力であるのです。(p177)

■創作について。

それから私たちは、人間の醜さ、自分自身の醜さに気づいて笑うことがあります。これは、自分自身の最悪の特徴に気づくかどうかに深く関わっている問題なのです。そういうわけで、私は矛盾することを言ってしまいました。笑いは真の愛情から生まれると言いましたが、笑いはそのまったく逆のもの、人間の醜さの認識からも生まれるのです。(p155)

拷問者が音楽好きで自分の子供たちには非常にやさしい人間だという事実は、二十世紀の歴史を通じて明白に証明されてきました。このことは、私たちの社会生活と政治生活を支えている心理のあり方についての、最も複雑な問題のひとつです。私自身は、この問題について答を出すことはできません。ただ問題を提示するだけです。(p157)

イギリスには藝術家が尊敬される伝統がありません。と言うより、そもそも藝術家は尊敬の対象にはなっていないのです。それから、ヨーロッパ大陸と違って、藝術家が政治に関わる伝統もまったくありません。しかも、骨がらみになった冷笑の伝統があります。冷笑は今なお安心して選ぶことができる対応なのです。イギリス人にとっては、冷笑することは楽なのです。イギリスではまことに奇妙なことが起こります。私たちを取り巻いている人生の現実を問題にしようとすると、激しい敵意によって迎えられるのです。(p168-169)

初めて読んだとき、胸をえぐるような言葉・事実の連続に、実は私は泣いてしまいました。
しかし、この本を涙をもって迎えることは今では正しくないと思っています。
なぜなら私はこの本を読んで学んだからです。

決して感情的にならないこと。
いつでもユーモアを忘れないこと。
言葉のもっている意味に注意すること。
言葉は事実を伝えるのではなく、事実を隠したり、事実の究明を妨害したりするために使われることがあること。(特に政治の言葉には注意すること。)
人間は時として、とても残酷なことをすること。

そういったことを、私はこの本から学んだのです。

何も起こりはしなかった ―劇の言葉、政治の言葉 (集英社新書)

何も起こりはしなかった ―劇の言葉、政治の言葉 (集英社新書)

思考とエディプスコンプレックス

頭の中では考えは明確になっているのにいざ文章にすると不明瞭になるという不思議をよく経験する。
おそらく文章は頭の中にあるときは生理感覚と結びついていて意味充足状態にあるのだろう。
文章にするときに言語へのコード化が起こりその過程でまた、軋轢も起こるのだろう。
それはエディプスコンプレックスの克服になぞらえることも可能ではないか。

松岡正剛「知の編集術」 (講談社現代新書) 追記

モノマネってさ、する前に「いまから誰某のモノマネやりま~っす」って宣言してからやらないと、誰の真似かまったく判らないって知ってた?
一回TVで原口あきまさが宣言せずにやってて、みんなポカーンてなってたのが記憶に残ってる。

ほんとに判らないんだよ!

びっくりした。

「いまからダレソレのモノマネやりま~っす」っていう宣言が、みんなにモノマネを受け入れるこころの準備を作るって事なんだよ。
つまり、「知の編集術」に関連させて言うと、それだけ文脈が大事ってことなんだよね。


具体例を出すよ。


これ・・・なんの広告かわかる?
有名だから知ってるかな?

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正解はこれ

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企業のロゴがあると、ああなるほどって納得できるよね。

つまり、文脈がいかに大事かってことが、ここからはっきりと判る。
え?この西武百貨店の広告がそもそも判りにくいって?
たしかにそうだよね。
ただ、広告の歴史をみると、だんだん具体から抽象に向かっているようなんだよ。
考えるよりも、感じる方向に向かっていることは間違いない。
ただ、それはまた別の話。

松岡正剛「知の編集術」 (講談社現代新書)

われわれの意見が多様なのは、別にもらった理性の分け前が人によって多いから起こるのではなくて、単にみんなの関心の対象がちがっていて、ものの考えかたもまちまちだからなのだ。つまり活発な精神を持つだけでは不十分であって、いちばんだいじな要件というのは、その精神を正しく適用することなのだ。最高の精神は、最高にすぐれた成果を挙げることもできるが、同時にものすごくはずれていってしまうことだって、じゅうぶんに可能だ。そしてとてもゆっくりと旅する者であっても、必ずまっすぐな道をたどるならば、走りはするがまっすぐな道を捨てる者にくらべて、ずっと遠くまで進むことができるだろう。

デカルト方法序説(もろもろの学問分野で、正しく理詰めで真理を探究するための方法についての考察)」*1

いきなりデカルト方法序説」の引用で始めてしまったが、「知の編集術」(以下本書とする)は「方法論に関する本」である。
本書には方法論という言葉は出てこないが、ともかく方法論に関する本である。
つまり、「創造的な思考をするための方法論に関する本」である。

そのためには、先に引用したように、「その精神を正しく適用すること」つまり「方法」が重要であると本書も言う。
キーワードとなるのは、「編集」である。
ここで、「編集とは何か?」という問題が当然発生する。

これは、「編集」という言葉をよく吟味するのが一番わかりやすいと思われる。

編・・・全体の中の一部という意味
集・・・集めるという意味

すなわち「編集」とは、「全体の中から一部を選んでそれを寄せ集めて何かを作る事」である。
編集という言葉は一般的には雑誌や映画やTV番組くらいにしか用いられないが、この本では、編集というものはもっとたくさんの分野にまたがっているという。
というか、世の中のすべての文化には編集が関わっていると言っている。
漫才、法律、料理、ファッション・・・etc.
そして筆者は編集工学というものを提唱している。

編集工学の入り口三つ。(17p)

① 編集は「文化」と「文脈」を大事にする

② 編集は常に「情報の様子」に目をつける
事は「地」と「図」に分けることが出来る。これを私は「情報の模様」と呼んでいる。

③ 編集は日々の会話のように「相互共振」をする

情報を相互的に共振させながら内容を好きな方向に進めていくこと、ここが編集の核心である。
例をいえば、「会話」にそれをみることが出来る。サッカーのように、パスを出し合いながらゴールに向かっていくイメージ。

本書は、本文でも触れているが、箇条書きで出したアイデアを膨らませて作られている。
構成にはその名残りが色濃く残っており、実際のところ本書はまとまりに欠けていて散漫という印象が否めない。
また、単語に込められた意味が独特で、文脈をよく読まないと誤読してしまうおそれがある。
流し読みをしただけでは、本書の内容を汲み取ることは難しい思われる。
とはいえ、本書では、「誤読も創造のひとつの源である」とも言っている。
余談だが、窪塚洋介がマルコムX自伝を読んで謎の右傾化を遂げたり、furukatsuが共産党宣言を読んで革命的非モテ同盟*2を作ったりしたのは、そういう「創造的誤読」の産物だと思う。

さて、誤読をしても大丈夫という事が確認されたので(って違うか)、先に引用した文章を検討していくことにする。
と、その前に。
引用した文章の①~③に共通して言える事がある。それは、「対象をよく見て分析しなさい」ということである。
まず先行して存在している事物を分析する。
このことが一番重要である。

まず①であるが、ここでいう「文化」というのは、例えば漫才なら、マクロな視点から見たお笑い全般のことで、漫才のほかにコントとか演劇とかも視野に入れたモノの事だと私は解釈した。また、漫才の歴史や伝統的様式など、あまたの漫才コンビに共通するモノもここに含まれる。
「文脈」はもうすこしミクロな視点で見たときに認識されるもので、たとえば漫才なら、しゃべくりで行くのか(ブラックマヨネーズ)、コントで行くのか(アンタッチャブル)、ツッコミとボケは固定(フットボールアワー)するのか入れ替わる(笑い飯)のか、そもそもツッコミとボケを決めない(POISON GIRL BAND)のか、男男でいくのか、男女でいくのか、女女でいくのか、とかそういう各論めいたものだと理解した。
②は、「地」と「図」という用語が分かりにくいが、漫才のたとえを続けるなら、「地」が上演時間とか漫才のスタイルで、「図」がネタのことである。分けて考える事が創造の近道だというわけである。
奇しくもデカルト先生も「難問は分割せよ」といっているし。*3
③は、漫才なら二人でアイデアを出しながら、実際に会話をしながら作り上げていくイメージかな。

別の例を一つ挙げる。

反広告社というものがある。

反広告社
http://antiadinc.tumblr.com/archive

まず反広告社のデザインは世に流布する広告の「文脈」を読み、それに「反抗する」という態度で成り立っている。
文脈を捉える事ができれば、次はそれを裏返せば良いだけなので、広告の方向性も自然と定まる。
アンチ資本主義から結果するアンチ電通、アンチコカ・コーラ、アンチディズニー、アンチユニクロ・・・etc.

話を具体的にしたいのでこの広告を例にとる。

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この広告は

リクナビへの皮肉
② 厳しい就職活動という時事ネタ
③ 受難するキリストの絵
④ 「祈られすぎて神になる」というネット上のギャグ

から成り立っている。
異なる文脈からパーツを取り出してきて、ひとつのものを作りあげているという点で、きわめて編集的といえる。リクナビのロゴを載せることで、この広告の文脈をわかりやすく説明することに成功している。もし、リクナビのロゴが無かったなら、かなりわかりにくい広告になっていただろう。

長くなったのでここからは駆け足で行く。
本書には他にも、「子供の遊びに見る編集のメカニズム」とか、「要約にみる編集のメカニズム」とか、映画や漫画の分析をしているが、まとめると以下のような事を言っている。

世の中の文化すべては、「全体の中から一部を選んでそれを寄せ集めて何かを作る事」で成り立っており、創造の際に重要なのは、「全体の中から何をどう選ぶか」であり、そこで要求されるのは「対象をよく見て分析する事」であり、「センス」を働かせて方向性を導き、作品を作り上げる。

これをよく頭に入れておけば、創造のヒントになると思う。


知の編集術 (講談社現代新書)

知の編集術 (講談社現代新書)

*1:http://www.genpaku.org/dcart01/dcart10j.html

*2:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%A9%E5%91%BD%E7%9A%84%E9%9D%9E%E3%83%A2%E3%83%86%E5%90%8C%E7%9B%9F

*3:http://blog.goo.ne.jp/stone1492/e/65b69680d473f6de784ad262828be9fa

モノマネ芸人に託された使命

俺は以前このようなツイートをしたことがある。

今回はこのツイートに関して、ちょっと考えたこと。
芸能人は「異形の者」として世間からは憧憬と反発を受けるものだ。
テレビや週刊誌に載ってる芸能人のゴシップに世間があそこまで盛り上がれるのも、それをよく示していると思う。やれだれそれが不倫しただの、整形だの。
芸能人は憧憬とともに、それだけ悪意のある視線にも晒されるわけで、それに対する反発も起こってくる。
特に、お笑い芸人の「素人弄り」にはよくそれがあらわれていると思う。あれ、見ていてあまり気分のいいものじゃないんだよな。芸能人のなかでも、お笑い芸人は特に世間からの悪意に晒されやすいポジションだろう。
その悪意に対抗するために、お笑い芸人は「反発する性向」を増幅させているのだろう。それが「素人弄り」となって表出してる。
芸能人と世間との間には、このような緊張感が存在している。
そこで、モノマネ芸人である。
モノマネ芸人を見ていて思うのは、「どれも本物より本物に似ている」ということ。カリカチュアされている。どうにも本物に対する悪意がにじみ出ている。それは、世間の持つ「意地の悪さ」の期待に応えたものだと思う。
世間の持つ悪意によりモノマネ芸人はテレビに呼び出される。
だから、彼らは芸能人よりは我々にとって距離の近い存在となってもいる。
地方のイベント(ショッピングモールとか)にモノマネ芸人がよく出演するのは、その反映なのかもしれない。

未成年の主張、あるいは大学教育について

こんなニュースがある。

桜宮高生徒、涙声で不満訴え「私たちの声聞いてくれなかった」

 「本当に残念。言葉が出ない」。大阪市立桜宮高の体育系学科の募集中止を受け、同校の運動部の元主将ら、3年生8人が21日に市役所で記者会見した。「私たちの声を十分に聞いてくれなかった」。涙声で橋下徹市長への不満を訴えた。

 制服姿の女子生徒6人と男子生徒2人は、1時間以上、立ったまま会見。「在校生や受験生のことを考えたら、もっと違う結果があったのではないか」と募集中止にやり切れない表情を見せた。

 同日午前、橋下市長は桜宮高を訪問し、在校生に約1時間、説明したが、生徒側は代表2人が計15分間発言しただけ。会見で生徒は「市長から具体的な理由やメリットの説明がなかった」「十分に聞いてくれなかった」と不満をあらわにした。

 市長が「勝利至上主義」と指摘したことには、女子生徒が「礼儀やマナーなど人として大切なことを学んできた。桜宮高の伝統は正しいと思っている」と力を込めた。

 管理職と体育科教員の刷新が決まったことに、女子生徒は「心に負った傷は深く、私たちを支えてくれるのは同じ傷を負った先生しかいない。新しい先生に入れ替えては、亡くなった子の思いを帳消しにしてしまうように感じる」と訴えた。

http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/01/21/kiji/K20130121005033100.html

このニュースを見てまず思ったことは、「痛々しいな・・・」ということであった。
彼らの痛々しさは、「観点が高校校舎から一歩も出ていない」という点にある。
それで記者会見をしてしまうところが健気だし、それだけ痛々しい。
もし裏で手を引いている大人がいるとしたら、許しがたい。

彼らのロジックは「桜宮高の伝統は正しいと思っている」という発言からも判るとおり、「伝統だから正しい」というロジックである。このロジックで相手を説得することは難しい。ましてや体罰など。
彼らには、校舎外からの視点が決定的に欠けている。

しかし、これは彼らの責任ではない。彼らは未成年なんだから仕方がない。
だからこそ、大人がちゃんとした指導をするべきなのだと思う。

ここからは大学教育の話になる。
大学という場所は、さっき言ったような意味での、「校舎外からの視点」を涵養する絶好の場所だと思う。
一般的にいって、高校を卒業をした時点で、世の中のことを色んな観点から見るという事はかなり難しいと思う。
大学では一般教養で文系理系いろんな講義(いわゆるリベラル・アーツっていうのかな。)が取れたので、それが後々非常に栄養になった。
まあ、いちばんのメリットは時間がたくさんあるということだと思う。
大学図書館で色んな本を読めたのは一番大きかったように思う。
高校卒業してすぐ就職したら、読書をする時間はそんなに持てなかっただろう。(そもそもどんな本が世の中に存在するかもあまり知らなかったかも・・・)
最近は大学教育がどんどん専門学校的になっているような気がする。(実際に見ていないので、判らないけれど、ニュースを見た限りでは、ね。)
就職の問題が大きすぎるので、しょうがない面もあると思うが、リベラル・アーツ的なものが軽んじられているとしたら、もったいないことだと思う。

大学の目的のひとつは、「多様な観点から物事を考えることが出来る人間を養成する」という事ではないだろうか。

掌編の時代

古本屋でいつもどおりあれこれ物色していたら、「日本プロレタリア文学集」の端本数冊が目に入った。箱の裏に収録作品が載っていたので確認していると、ふと目に留まるものがあった。「日本プロレタリア文学集・第20巻 『戦旗』『ナップ』作家集 ⑦」の収録作品に、「掌編・壁小説集-六十編」とある。表紙をめくり、目次を見ると知らない名前が多数並んでいた。小林多喜二、徳永直、高見順の他に、村山知義片岡鉄兵等もあった。気になったので買い求め、今ちょっとずつ読んでるが、これはなかなかいいね。
村山知義が小説を書いていたことは知っていたが、実物ははじめて見た。
どれもこれも3-4ページですぐに読めるからつまらなくても別に気にならない。面白いものもあるし。ストーリー的につまらなくてもルポルタージュとして読めばどれも面白い。

思うにこういう掌編は今の時代にもあっていると思う。
今の時代、日本人は仕事が毎日忙しく、一日に読書に当てる時間はほとんどない。一日に20ページ読めれば上出来だろう。小説はある程度まとめて読まないと内容が頭に入らないという事情を考えると、日常にあって長編を読むのは結構しんどいと思う。家族がいればなおさらである。
そして、今は小説以外にもケータイやらSNSなどいくらでも娯楽がある。読書という行為はどんどん端の方に追いやられている気がする。
そういう状況にあって、すっと入れて、すっと出られる掌編は、まさに今求められているのではないか。
多忙な日常生活にあって、つかの間の別乾坤を体験させてくれる読書、一杯の珈琲のような読書というのが今求められているのではないか。
そこで思い浮かぶのは、バーセルミ中原昌也である。どちらも一杯の珈琲・・・の比喩にふさわしい、か、な。どちらも苦そうだ。